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Chozan Bunko 辞
国民的辞書『広辞苑』の編者 新村 出の旧宅を訪ねて

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遺愛の書斎。ここで語源や由来の探究に没頭した出は、旧仮名遣いを正式のものとしており、『広辞苑』の序文を新仮名にするようにいわれて一晩泣き明かしたのだとか。

遺愛の書斎。ここで語源や由来の探究に没頭した出は、旧仮名遣いを正式のものとしており、『広辞苑』の序文を新仮名にするようにいわれて一晩泣き明かしたのだとか。

 春は入学や進級の季節。真新しい辞書を手にし、ページを開く時に漂う紙とインクの匂いにワクワクした──なんて思い出をお持ちの方もおられるのではないでしょうか。日本に数ある辞書の中でも、ちょっと特別な存在といえるのが『広辞苑』。多くの文豪が机上の友とし、第六版までで実に1190万部以上を売り上げるこの国民的辞書≠フ編者、新村 出(しんむら いづる)は、明治から昭和の激動期を生きた、近代日本を代表する言語学者です。

 新村 出(以下「出(いづる)」)は明治9年の生まれで、東京帝国大学(現・東京大学)を卒業後、33歳で京都帝国大学文科大学教授になるなど若くして日本の言語学・国語学を牽引する地位を確立。学問的探究を深めるとともに、その深く広い知見で『広辞苑』編纂事業を中心的存在となって支えました。

 そんな出が住まいとした邸宅が「重山(ちょうざん)文庫」として公開され、氏の偉業を今に伝えています。

 紫明通から細い路地を入っていったところに門を構える重山文庫を訪ねると、出の孫にあたる新村 恭(やすし)さんが迎えてくださいました。

「この建物は、出と縁のあった木戸孝允(きど たかよし)の旧宅をもらい受けて移築したものです。出は48歳から享年92歳でその生涯を閉じるまで、この家で暮らしました」と語る恭さんは、出と二人三脚で『広辞苑』編纂にあたった次男・猛の息子で出にとっては末の孫。ご自身も3歳まで、この家で同居されていたそうです。

 玄関を入ると、まず目に入るのは、出が探究の日々を過ごしたという書斎。そして廊下を進むと、『広辞苑』の初版から第七版に至るまでの全版が書棚に並ぶ一室へ。書棚の前には往時の校正履歴が展示され、活版印刷時代に20万語もの言葉を収録した辞書を編む困難さと情熱を感じ取ることができます。

 昔のままに残されている客間には、『広辞苑』初版出版後に受章した文化勲章を本人がスケッチしたものや、趣味で集めた松ぼっくりのコレクション、大ファンだった高峰秀子とのほほえましい交流を偲ばせる遺品などが随所に飾られ、秀才が併せ持つ可愛らしい一面に和む場面も。「京都にこういう学者がいたのだということを、一人でも多くの方に知っていただき、言葉や言語学に興味を持ってもらえたらうれしいですね」。

 そんな恭さんは、元岩波書店の編集者。言葉と向き合い続ける新村イズムは、後世へ確かに受け継がれています。

2階の書庫には、出が遺した膨大な資料の一部を保管。研究者の利用に供しています。

2階の書庫には、出が遺した膨大な資料の一部を保管。研究者の利用に供しています。

『広辞苑』第二版の改訂作業時のおびただしい付箋。作業の緻密さとハードさが窺えます。

『広辞苑』第二版の改訂作業時のおびただしい付箋。作業の緻密さとハードさが窺えます。

 
出が暮らした頃のまま残る客間には、実父と交流のあった勝海舟による「美意延年」の書額も。

出が暮らした頃のまま残る客間には、実父と交流のあった勝海舟による「美意延年」の書額も。

 
木戸孝允邸の一部を譲り受けた建物外観。門前の石柱を目印にお訪ねください。

木戸孝允邸の一部を譲り受けた建物外観。門前の石柱を目印にお訪ねください。

 
 

新村出記念財団 重山文庫 新村 恭さん

新村出記念財団 重山文庫 新村 恭さん

「出の父が山形から山口に転勤になる際に生まれたので、山を二つ重ねて『出』と名付けられたそうです。そんな由来から、出が雅号を『重山』としたことにちなんで、館の名前にしました。月曜と金曜に開館していますので、ぜひ気軽にお立ち寄りください」


Information
新村出記念財団重山文庫
京都市北区小山中溝町19
TEL:075(411)9100

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