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The Former Retreat of Tomomi Iwakura
洛北に、明治回天の軸足岩倉具視幽棲旧宅
鑑蓮会

岩倉具視お手植えと伝わる樹齢150年の松を中心とした庭。明治から昭和初期に活躍した造園家・七代目小川治兵衛(植治)が整えたものです。

 かつて流通していた五百円紙幣を憶えていらっしゃいますか?あのお札に描かれていた肖像が、岩倉具視(いわくらともみ)。京都の公家の出身ですが、公家≠ニいう言葉の優雅な響きとは裏腹に、なんとも怖い顔をしています。大河ドラマ『西郷どん』では、笑福亭鶴瓶師匠の怪演が光っていますね。幕末、孝明天皇の近習として、朝廷と幕府の協力強化を進めた具視は、天皇の妹・和宮と将軍家茂の結婚を成功させます。ところが、朝廷内に尊王攘夷派が台頭すると、公武合体派と目されていた具視は、洛中から追放されて、洛北・岩倉村に幽棲することになります。その時の住居がここ、国指定史跡の岩倉具視幽棲旧宅です。

 購入した時には、現在の附属屋部分のみで、もとは大工 藤吉の居宅でした。後に主屋と繋屋が増築され、式台玄関や床の間も設けられましたが、それでも公家の住まいとしては、あまりにも質素です。でも、具視はここでおとなしく身を慎んでいたわけではありません。薩摩・水戸・土佐藩士らと頻繁に交流し、坂本龍馬や中岡慎太郎、大久保利通などもこの家を訪れました。大政奉還から倒幕、王政復古にいたる維新の大きな流れの少なくとも一部は、この侘び住まいの中で計画されたのです。

 実は、それ以前から岩倉具視はこの岩倉村と深い縁がありました。学芸員の重岡伸泰さんによると「古くから公家社会では、子どもを里子に出す習わしがあり、具視も幼少期、この旧宅にほど近い農家に里子に出されて、自然に触れてのびのびと育った一時期があったのです。岩倉村は、具視にとってのホームタウンだったのでしょうね」とのこと。幽棲中も、村人は作物を届け、危険が迫ったときには通報するなど、具視をもてなし、守りました。岩倉村では、洛中で病を得た人を民家が受け入れ、ケアしてきた伝統があります。このホスピタリティが明治維新を支えた、というのは言い過ぎでしょうか。

 維新後、具視は東京に移り住みますが、京都に来た際には村の人々と宴席をもって旧交を温め、資金を出して溜め池をつくるなど、恩返し≠ノ余念がなかったようです。その公家らしくない風貌のせいもあって、時代劇などでは陰謀家のように描かれることも多い岩倉具視ですが、この岩倉の地では、心の鎧を外して寛いだひとときもあったのではないでしょうか。

 
岩倉具視に関する資料を展示している鉄筋コンクリート平屋建ての洋館、対岳文庫。設計は、京都市庁舎や順正清水店 五龍閣も手がけた建築家・武田五一。

岩倉具視に関する資料を展示している鉄筋コンクリート平屋建ての洋館、対岳文庫。設計は、京都市庁舎や順正清水店 五龍閣も手がけた建築家・武田五一。

附属屋に残る槍。のどかな里山の侘び住まいとはいえ、幕末の最重要人物。厳重な警戒態勢の中で暮らしていたようです。

附属屋に残る槍。のどかな里山の侘び住まいとはいえ、幕末の最重要人物。厳重な警戒態勢の中で暮らしていたようです。

 
この床の間を背景に、岩倉具視と対面する坂本龍馬や中岡慎太郎…。襖絵は当時のまま、壁も、修復の際に当時と同じ土を探してきたそうです。

この床の間を背景に、岩倉具視と対面する坂本龍馬や中岡慎太郎…。襖絵は当時のまま、壁も、修復の際に当時と同じ土を探してきたそうです。

 
 

岩倉具視幽棲旧宅管理事務所 学芸員 重岡 伸泰さん

岩倉具視幽棲旧宅管理事務所 学芸員 重岡 伸泰さん

「岩倉具視がここに住んだのはわずか3年。でも、日本の歴史を変える3年間でした」重岡さんや重岡さんの研修を受けたスタッフによる説明は、一聴の価値あり。


Information
岩倉具視幽棲旧宅管理事務所
京都市左京区岩倉上蔵町100
TEL:075(781)7984

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