湯どうふの順正
しるす 訪れる 味わう 旬の味わい 京のこばなし 平成とうふ百珍 拝観・見学一覧 絵ハガキ マップ バックナンバー ホーム
-Kadode-Hachimang- 祈る
義経公が奥州へ向かう前に旅の安全を祈った『首途八幡宮』
義経公が奥州へ向かう前に旅の安全を祈った『首途八幡宮』

墳墓と伝わる小高い丘の上に建つ本殿には、誉田別尊(ほんだわけのみこと)(応神天皇)、比淘蜷_(ひめおおかみ)、息長帯姫命(おきながたらしのひめのみこと)(神功皇后)が祀られています。

春は新たな門出(かどで)の季節。この門出という言葉、古くは「首途」とも書き、人生の転機となるような出発という意味合いをより強く表していました。そんな素敵な言葉を名に冠する神社が、西陣の町並みの一角にある首途八幡宮です。

「創建年代は不明ですが、少なくとも平安時代には『内野八幡宮』と呼ばれていたそうです。当時、この辺りは都の中心部だったので、内側の野≠ニいうような意味ではないかと推察されます」と語ってくださるのは、宮司の梶道嗣さん。もとは皇城鎮護の社として重んじられ、皇族方の篤い尊崇を集めていたのだそうです。

平安時代末期、現在の社がある場所に屋敷を構えたといわれるのが、奥州で産する金を商う金売吉次(かねうりきちじ)という人物。その頃、鞍馬寺で修行していた15歳の牛若丸(のちの義経)は、この吉次の案内で奥州平泉にいる藤原秀衡のもとへ向かうことになります。寺を抜け出した牛若丸は、ここで吉次と落ち合い、近くにあった内野八幡宮で道中の安全を祈願してから旅立ったのでした。

「当時、京から平泉までの旅は、大変な長旅だったことでしょう。しかし義経公は無事に辿り着き、源氏再興の悲願を果たされた。以来、このお宮はいつしか『首途八幡宮』と呼ばれ、旅行安全の御利益で信仰されるようになったのです」。

その後、義経公の旅立ちの地として人気を集めた首途八幡宮ですが、江戸時代の京都に甚大な被害をもたらした天明の大火で社殿と宝物類のほとんどを焼失。小さな祠を残すのみとなっていた神社を復興したのは、西陣織とともに栄えた町衆の力でした。

義経公が奥州へ旅立った旧暦3月3日を偲ぶ祭として町衆の発案で始まった『義経首途祭』も、旧暦の桃の節句に近い週末、多くの参拝者が見守るなか続けられています。「先代宮司だった父から、戦後すぐの頃は荒れ放題だったと聞いています。西陣の活気とともに、ここまで立派なお宮になりました」と梶宮司。

旅行はもちろん、進学や就職をはじめさまざまな首途≠守るお宮は、今日も西陣の町の一角で、静かに時を刻んでいます。

 

首途八幡宮(かどではちまんぐう)梶 道嗣(かじ みちつぐ)宮司

首途八幡宮(かどではちまんぐう)梶 道嗣(かじ みちつぐ)宮司

「このあたりは源氏物語にも登場する桃園親王の邸宅跡ともいわれ、桃の木にも縁の深い場所です。源平しだれ桃は梅と桜のちょうど間の時期が花の見頃なので、ぜひ見に来てください」。

イメージ画像

境内には、紅白の花が同じ枝に咲く『源平しだれ桃』が植えられ、春先にその艶やかな姿を見ることができます。

境内には、紅白の花が同じ枝に咲く『源平しだれ桃』が植えられ、春先にその艶やかな姿を見ることができます。

Information
首途八幡宮
京都市上京区智恵光院通今出川上ル桜井町102-1
TEL:075(431)0977

ページの先頭へ

ページの先頭へ