
幕末から明治にかけて活躍した大田垣蓮月。三十三歳で出家後は、急須や茶碗などを焼いて生計を立てます。やがてその名は高まり、「蓮月焼」と呼ばれて人気を博すほどに。それでも自身は質素な生活を続け、飢饉の際には、匿名で金品を寄付したり、丸太町あたりの鴨川に自費で橋を架けたりするなど、慈善活動に勤しんだ人物としても知られています。養父や夫、子どもにまで先立たれるという悲痛な運命を背負いながらも八十五年の人生を生き抜きました。
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【A】蓮月尼碑
[住所]京都市北区西賀茂神光院町120
住居を転々としていた蓮月。その回数は三十回を越え、「引っ越しの蓮月」と呼ばれていました。神光院境内の茶室は、引っ越しを締めくくり、終いの住処とした場所です。 |
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【B】大田垣蓮月仮寓跡石碑
[住所]京都市伏見区醍醐落保町
醍醐寺門前の醍醐道沿いに立つ仮寓跡石碑。出家後、岡崎や西賀茂などを転々としていましたが、この醍醐の地もその一つです。 |
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【C】故蓮月尼記念碑
[住所]京都市北区西賀茂鎮守菴町50
この碑は、蓮月尼を記念して、神光院からほど近くの西方寺境内に建立されたもの。このお寺の西側にある墓地に蓮月は眠っているといわれます。 |
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【D】粟田焼発祥之地碑
[住所]京都市東山区粟田口鍛冶町
粟田神社の参道に立つ石碑。現在の蹴上から三条通りあたりにかけて、多くの職人が窯を構え住んでいたそうです。粟田焼の中でも、特に蓮月が造形したものを「蓮月焼」と称します。 |
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